欧州はなぜ独自の決済網を作るのか?――EPIからWero、European Network for Paymentsまで

シリーズ|決済インフラと主権――誰が決済のレールを握るのか(第1回)

2026年9月30日、欧州の主要な決済サービス5陣営が、新しい共同事業体「European Network for Payments(ENP)」の設立を発表した。

参加するのはBANCOMAT、Bizum、EPI/Wero、SIBS-MB WAY、Vipps MobilePay。これらのサービスはすでに13か国、約1億3,000万人をカバーする。だがENPが作ろうとしているのは、各国のサービスを一つの新ブランドへ置き換える仕組みではない。

BizumはBizumのまま、WeroはWeroのまま使いながら、その裏側を共通の相互運用レイヤーでつなぐ。

これは、欧州が長年抱えてきた「国ごとの決済は強いのに、欧州全体では非欧州系ネットワークへの依存が大きい」という問題に対する、一つの現実的な答えである。

本稿では、2020年のEuropean Payments Initiative(EPI)から、Wero、そして2026年のENPまでを一次資料でたどる。結論を先に言えば、欧州の決済戦略はこの6年間で、「一つの欧州決済ソリューションを作る」構想から、「欧州発のサービスを育て、さらに既存サービス同士を相互接続する」方向へ進化したと見ると分かりやすい。

まず決済を4つのレイヤーに分けて考える

このシリーズでは、決済をアプリ名だけで見るのではなく、原則として次の4層に分けて考える。

レイヤー 何を指すか 欧州の例
④ Interface Wallet / App / Consumer Brand Wero、Bizum、MB WAY、Vippsなど
③ Scheme / Rules 参加条件、acceptance、routing、network rules Weroのルール、ENPの相互運用ルール
② Rail / Infrastructure 決済ネットワーク、instant payment infrastructure SEPA Instantを含むA2A基盤、各国の既存インフラ
① Money 実際に動く価値 主に商業銀行預金

この区分は完全ではない。実際のサービスは複数レイヤーにまたがる。しかし、どこで競争し、どこを共通化し、誰がルールを決めるのかを考えるうえでは有効である。

カードネットワークの力については、「なぜ『Visaなら使えます』が成立するのか?Honor All Cardsとカードネットワークの力」でも整理した。今回の欧州は、まさにこの「ネットワークをどう作るか」という問題に取り組んでいる。

なぜ欧州は「決済主権」を問題にするのか

欧州委員会は2020年9月のRetail Payments Strategyで、欧州発かつpan-Europeanな決済ソリューションを育てることを、経済・金融上の主権と「open strategic autonomy」に結び付けた。決済solutionとは別に、public central bank moneyをdigital化する構想はDigital Euroの記事で整理している。

背景には、欧州各国に優れた国内決済サービスが存在しても、それらが国境を越えて同じように使えるとは限らないという構造がある。

ECBの2025年の「Report on card schemes and processors」によれば、EUでは2023年にカード決済が約700億件に達し、非現金決済件数の54%を占めた。カードは依然として最大の電子決済手段である。

一方、同報告の2022年データでは、ユーロ圏内で発行・受入ともに行われたカード取引の約61%を国際カードスキームが占め、国内スキームは約39%だった。また、ユーロ圏では13か国がカード取引を国際スキームに全面的に依存している。

ここで数字の定義には注意が必要だ。ECBは別の資料で「約3分の2」と表現しているが、これは対象市場の取り方が異なる。同報告自身も、ユーロ圏発行カードが域外加盟店で利用された取引まで含めると国内スキーム比率が2022年37%、2023年36%に下がると説明している。したがって、61%と「約3分の2」は単純な時系列比較には使えない。

2026年3月に公表されたEurosystemの包括的決済戦略でも、欧州は依然として非欧州系プレイヤーへの依存を重要課題と位置付けている。ここでいう「主権」は、外国企業を排除するという意味ではない。少なくともECB・欧州委員会の公式文書では、欧州自身がルール、ガバナンス、インフラ、レジリエンスについて選択肢を持つことが中心に置かれている。

2020年、EPIは「カード+ウォレット」として始まった

EPIが公式に表舞台へ出たのは2020年7月2日である。

欧州委員会とECBは同日、ベルギー、フランス、ドイツ、スペイン、オランダの16の大手銀行によるEuropean Payments Initiativeを歓迎すると発表した。

当初の構想はかなり広かった。ECBの発表では、pan-Europeanなカードとデジタルウォレットを作り、店頭、オンライン、P2P、現金引き出しまでカバーすることが想定されていた。欧州委員会は当時、2022年の本格稼働を見込んでいた。

しかし、その初期構想がそのまま実装されたわけではない。

2023年4月、ECBはEPIの進展について、instant account-to-account paymentsを基盤にしたdigital walletとして説明している。公式資料を並べるだけでも、2020年の「card + wallet」から、2023年には「instant A2A + wallet」へ重点が移っていることが分かる。

これはEPIの歴史を見るうえで重要である。決済ネットワークは、最初に描いた完成形をそのまま実現するとは限らない。参加者、既存インフラ、導入コスト、普及速度を見ながら、現実的な起点へ設計を変える。

なお、今回参考にした書籍にはEPIについて2021年7月と読める記述があるが、ECBと欧州委員会の一次資料では正式発表は2020年7月2日である。本稿では一次資料の日付を正本とする。

2023年、EPIは既存の強い決済サービスを取り込んだ

次の転換点は2023年だった。

2023年9月、EPIは新しいウォレットの商用名を「Wero」と発表した。翌10月31日には、オランダのiDEALと、ルクセンブルクのPayconiq Internationalの買収完了を公表している。

この動きは、ゼロから利用者と加盟店を集めるのではなく、すでに利用されている決済サービスの資産を取り込む戦略と見ることができる。

同年12月14日には、ドイツとフランスの銀行顧客間でWeroを使った最初のinstant account-to-account paymentのPoCを実施した。最初の送金額は10ユーロだった。

ここでEPIは「欧州版カードネットワーク」をそのまま再現するより、既存のinstant payment基盤を使い、その上に共通ブランドと利用体験を作る方向へ進んだ。

2024年、WeroはP2Pから始まった

Weroの一般利用は2024年7月2日、ドイツで始まった。

最初のユースケースはP2P送金だった。店頭決済やe-commerceを最初から全面展開するのではなく、まず個人間送金から立ち上げ、その後に商取引へ広げる順序である。

この「強い起点用途を先に作り、その後acceptanceを広げる」という普及パターンは、中国とケニアのモバイル決済を比較した記事で見たM-PESAやWeixin Payとも共通する部分がある。決済技術は、機能が多いだけではnetwork effectを作れない。

2025年にはWeroのe-commerce展開が始まり、2026年にはin-storeにも範囲を広げている。

EPIの2026年9月16日の発表では、Weroはベルギー、フランス、ドイツのP2Pで6,000万人にサービスを提供しているとされる。別に、ベルギー、フランス、ドイツ、ルクセンブルク、オランダの48,000超の加盟店が、オンラインまたは実店舗でWero取引をすでに処理したとされる。

ただし、この「6,000万人」は継続利用者数や月間アクティブ利用者数を意味するとは明記されていない。9月2日のEPI資料では「欧州で58 million」とされており、短期間で数字が変化しているため、本稿ではEPIが公表する“users served”系の規模指標としてのみ扱い、MAUのような利用頻度指標とは混同しない。

Weroだけではなく、既存サービスを「つなぐ」発想が出てきた

2025年になると、欧州のもう一つのアプローチが明確になる。

BANCOMAT、Bizum、MB WAYなどが参加するEuroPAとEPIは、2025年6月に協力を発表し、同年9月には各サービスを中央のtechnical hubで相互接続する構想を示した。

この時点で重要だったのは、利用者に新しい共通アプリへの乗り換えを求めないという考え方である。

Bizum利用者はBizumを使う。Wero利用者はWeroを使う。そのまま国境を越えて送金や支払いができるよう、裏側をつなぐ。

2025年9月の公式発表では、対象として13市場が明示された。

13市場
Andorra / Belgium / Denmark / Finland / France / Germany / Italy / Luxembourg / Netherlands / Norway / Portugal / Spain / Sweden

この時点では参加ソリューション合計で1億2,000万人超とされた。

2026年、構想はEuropean Network for Paymentsへ進んだ

2026年2月2日、BANCOMAT、Bizum、EPI、SIBS-MB WAY、Vipps MobilePayはMoUを締結した。

発表では、参加サービスの利用者規模は約1億3,000万人、13か国でEUとノルウェー人口のおよそ72%をカバーするとされた。また、中央のinteroperability hubを運営する共同事業体を2026年上期に設立し、2026年にcross-border P2P、2027年にe-commerceとPOSへ展開する計画が示された。

4月にはBANCOMAT、EPI、SIBS-MB WAYが、QRコードを使ったcross-borderの店頭支払いPoCに成功した。

そして2026年9月30日、共同事業体European Network for Paymentsが正式に発表された。新会社の本拠地はマドリードで、参加5陣営がequal shareholdersとなり、共通のtechnical / operational layerを運営する。

図1|EPIからWero、ENPまで

時点 出来事 意味
2020-07-02 EPI発表 card + walletを含むpan-European solution構想
2023-04 ECBが新しいEPI構想を支持 instant A2A + digital walletへ重点
2023-09 Wero名称発表 consumer-facing brandを明確化
2023-10-31 iDEAL / Payconiq買収完了 既存の強い国内資産を取り込む
2024-07-02 Weroをドイツで開始 P2Pから立ち上げ
2025 EuroPAとEPIがhub modelを検討 既存ブランド間の相互運用へ
2026-02-02 5陣営がMoU 約1.3億人、13か国の接続構想
2026-04 cross-border POS PoC QRによる相互運用を実証
2026-09-30 European Network for Payments設立発表 interoperability hubを運営する共同事業体へ

なお、2026年2月のMoUでは共同事業体を「H1 2026」に設立する計画だった。今回の発表文の日付は9月30日だが、発表日と法的な設立日は必ずしも同じではない。この資料だけで、設立が遅れたとは断定できない。

さらに、2月資料では「2026年P2P、2027年e-commerce / POS」と明記されていたが、9月30日の最新発表では、P2Pを最初に開始し、その後e-commerceとPOSへ展開するという順序は維持されている一方、2027年という具体的な期限は再掲されていない。本稿では、旧ロードマップを確定日として扱わない。

WeroとENPは同じものではない

ここは最も混同しやすい。

Wero European Network for Payments
役割 消費者・加盟店向けの具体的な決済サービス/ブランド 複数の既存決済サービスをつなぐ相互運用事業体
Interface Weroブランド 原則として共通アプリを持たない
対象 Wero参加市場 BANCOMAT、Bizum、Wero、MB WAY、Vipps MobilePay等の相互接続
狙い Wero自身のpan-European reach 既存ブランドを残したままcross-border reachを広げる

Weroが「一つの欧州サービスを広げる」アプローチだとすれば、ENPは「複数の成功したサービスをつなぐ」アプローチである。

二つは競合するというより、Wero自身がENPに参加することで補完関係にある。

これはVisa・Mastercardをすぐ置き換える話ではない

ENPの設立を「欧州がVisa・Mastercardを置き換える」と表現すると、現時点では強すぎる。

第一に、国際カードスキームは依然として欧州のカード取引で大きなシェアを持つ。第二に、ENPの最新ロードマップはまずcross-border P2Pから始まり、e-commerceとPOSは後続フェーズである。第三に、Weroの商取引受入は拡大中ではあるものの、カード網と同等のacceptanceに達したと示す一次資料はない。

したがって、2026年時点で確認できるのは、欧州が代替可能性を持つ決済ネットワークを育て、既存の国内サービスを相互接続し、選択肢とレジリエンスを増やそうとしているということである。

ここで競争しているのはアプリの見た目だけではない。

誰がnetwork rulesを決めるのか。誰のインフラでroutingするのか。どのブランドが加盟店へreachできるのか。障害や地政学的緊張が起きたとき、どのネットワークを使い続けられるのか。

「決済主権」という言葉の中身は、このレイヤーごとの選択肢にある。

次に見るべき数字は「ユーザー数」だけではない

今後ENPやWeroを評価する際、単純な登録者数だけを見ると実態を見誤る可能性がある。

重要なのは、少なくとも次の指標である。

  • cross-border P2Pが実運用でいつ開始するか
  • e-commerce / POSの実装時期
  • 加盟店acceptanceの実数と定義
  • 取引件数と取引金額
  • active usersの定義
  • 国内サービス間のrouting rules
  • 加盟店・PSPにとってのコスト
  • iDEALやPayconiqからWeroへのmigration進捗
  • 障害時のfallbackとoperational resilience

特にWeroの利用者数は、現時点で「users」「users served」「registered users」など表現が一定していない。今後時系列チャートを作る場合は、同一定義のseriesであることを確認する必要がある。

欧州が作ろうとしているのは「もう一つのアプリ」ではない

2020年のEPIから2026年のENPまでを見ると、欧州の課題が少し違って見えてくる。

問題は「優れた決済アプリがない」ことではなかった。iDEAL、Bizum、BANCOMAT、MB WAY、Vipps MobilePayのように、国内や地域で強いサービスはすでに存在している。

難しかったのは、それぞれのnetwork effectを国境の外へどう拡張するかだった。

EPIはWeroという共通ブランドを育てる道を選んだ。そしてENPは、既存ブランドを残したまま裏側をつなぐ道を加えた。

決済の競争は、アプリ対アプリだけではない。

Interfaceの下にあるScheme / RulesとRail / Infrastructureを誰が握り、どこまで相互運用できるか。

欧州の6年間は、そのことを分かりやすく示している。

次回はインドへ移る。UPIは最初から共通レールを作ることに成功した。それでもPhonePeとGoogle Payへの集中が起きた。オープンなインフラを作ればnetwork effectの問題は消えるのかを検証する。


主な一次資料

取得日:2026-10-03。各資料の公開日・対象時点は本文または括弧内に明記した。更新型ページは、記事公開前に最終確認する。

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